アフターコロナは個人主義と国家主義のようなことが個人と会社で発生するかもしれない

最終更新日

個人主義と国家主義は共存できる
それどころかむしろ共依存の関係にある

一見言葉的には変なことを言っているように聞こえるかも知れないが、紛れもない事実だ。

なぜなら個人が十分に強ければ国家はいらないが、個人はほとんど全ての場合において集団より弱いからだ。
個人主義を推し進めると、それは大衆を、
一部の個人でも余裕で戦えるゴリラと大半の個人では戦えない羊
に分けることになる。
大量に並んだ羊を支えれるものは国家しかない。
皆それがわかるので国家主義に傾く。

詳しい説明が必要な方はこちらを参照して欲しい。

https://www.clazytech.com/2020/10/369/

コロナで発生した分断は雇用による集団形成の力をかなり弱くすることが予想される。いや、すでに始まっている。

私は若い頃から「終身雇用制なんてなくなれば良いのに」と強く思っていた。その考え方自体は今でも変わらないが、歳を取ることであくまで「私には必要ない」というマイルドな意味合いに変わってきた。
簡単に言うと、終身雇用制を必要とする業態だったり、終身雇用制があるべきシーンというもの存在を認められるようにはなってきた。つまり経済活動における「弱い個人」である。(若い頃のトゲトゲした私に付き合ってくださった方々、大変お世話になりました。こんな立派な大人になりましたよ!笑)

キャリアの観点で弱い個人とは、例えば、意図してまたは意図せずして「タコツボ化されている部門のタコツボの運営を長年任されている人」などは非常にわかりやすい典型例だ。そのような人は極めてリスクが高い。例えば何かしら経営環境の変化が発生してそれによって(経営者が入れ替わる、収益が劇的に悪化する、どこかに買収される、etc.)会社がそのタコツボを壊すことを決断した時に、その人は他の部門では使いものにならない。タコツボが在る限りはその人の地位はむしろ安泰なのだが、そんなもの、いつ崩れるかわからない。
この時、終身雇用制が正当にその力を発揮すれば、
・彼/彼女のキャリアをそのように固定化してしまったのは会社のミスである
・きちんと再教育を施して別部門で活用すべし
となる。多くの大企業では現実にこのようなフローが運用されている。

しかし、仮にここでもし個人主義を強く重んじるならば、
個人のキャリアは個人で築き上げる責任があり、その分、個人のキャリアアップをいたずらに制限するような、そんな理解の無い会社は言語道断。みんなそんな会社は出ていけば良い。会社自体がいずれこの流動的な社会の渦に淘汰されてしかるべきだ。

となる。

さて、このセリフにどのくらい説得力があるだろうか?

20代の頃に私には説得力満点だった。実際、私は自力で都度転換期を設定することで損したり、痛い目もみながら七転八倒しキャリアを切り開いていったし、キャリア視点に立った時に何かを会社に依存したことというのがほとんど記憶にない(各方面の方々こんな態度ですみません)
「生殺与奪の権利を他人の手に握らせるな」だ。
海外経験が欲しかったがどうやら会社には行かせてもらえなそうだと感じ、辞めて自力でアメリカに渡ったし、まともに商品企画をやるような部署にいなかった時期は自分で勝手にプライベートな時間に商品企画を立てて上まで持っていった(各方面の方々すみません)
今も結局独立しているようなものなので自分のキャリアを腐らせるも発展させるも完全な自己責任だ。然るべし。

かなり特殊である(各方面の方々色々すみません)

日本でいずれか雇用状態にある方々は数千万人いる。そのうち、どのくらいの人が上記に同意できるだろうか?
シビアに考えると、ほとんどの人の反応は「言ってることは理解できるけど、感覚的に難しいと思う」というところではないだろうか。

しかし、アフターコロナがもし順調に訪れた時に、全員強制的に上記に合意させられる可能性が非常に高い。

リモートワークが主体になることによって会社は雇用者に対する一般的な義務のいくつかを失う(免除される?)
例えばオフィスがあるのは当たり前ではなくなる可能性が高い。他にも社員の健康増進のための福利厚生の水準も下がる可能性が高い。会社自体が社交や人脈拡大の場として上手く機能しなくなる可能性も高い。人材教育の場としての会社の機能も求められばするものも、恐らく効果が限定的になっていく可能性が高い。
つまり、被雇用者は仕事の場所を自分で確保し、健康管理は自力で行い、人脈の開拓もプライベートの時間を利用して行い、スキル向上のための教育の機会もプライベートの時間を割いて自分で計画的に設計する必要がある、それが当たり前、と言われるようになってしまう可能性が高い。

個人主義万歳だ。

さて、このように個人主義が強くなったあと、社会的にはどのような動きが見られるようになるのか?

個人が自立して自由にキャリアを構築するハツラツとした社会が来る?
個人がプライベートの時間を柔軟に活用し、会社に縛られない人脈やスキル開発を行うことでより経済に貢献できるようになる?

否、会社に対して個人が「もっとおれたちの面倒を見ろ」と言うようになるのではないかと私は思う。

何故か。
それは国家と個人の間で起きている既に証明済のテンプレだからだ。
個人が重視されることで集団が弱くなり、集団は個人に寄与するモチベーションを持たなくなる。そうすると個人を支える基盤として集団は機能しないようになる。最終的に唯一信頼できる集団は国家だけになってしまう。
半ば消去法的なロジックだ。

会社はいくつもの集団が組み合わさって機能している。プロジェクトチーム、グループ、事業部門、etc. これらが弱くなるというのはどういうことか?
例えば私が大学院卒で入社した頃、はっきり言ってハンダゴテの使い方すらなってなかった。頭でっかちの役立たずだ。部品の実践的な知識も圧倒的に足りなかったし、社外のベンダーとの会話もどうさばいたら良いのかさっぱりわからなかった。しかし、その時期は年の近い先輩やメンターやベテランのおっちゃんに色々と教えてもらったものだった。これが集団の強さだ。
個人の生活に視点を移せば、これはよちよち歩きの赤ちゃんを親戚一同や隣近所で面倒見るような長屋的サポーティブな麗しき世界のことだ。
残念ながらこのような世界はもう失われた。それによって子育ての難しさは増している。そしてそれを埋め合わせるために子供手当、市営の保育所、幼稚園の時間外保育無料化、などなど国家および自治体レベルでの解決策が求められている。本当はもっと小規模な集団で解決できる話だったはずなのに。これが集団が弱くなっている証明である。

見事に同じだ。同じことが起きる。

個人主義が強くなれば会社は個人に成果を強く求めるようになる。
プロセスではなく結果を重んじるようになる(そもそもプロセスは監視できなくなるので結果しか見るものがない)
個人は会社に成果に見合った報酬を求めるようになる。
会社はそれに応じて負荷を上げる。
個人のプライベートの時間は少なくなる。
スキル開発や人脈開拓の時間などなくなる。
会社に対して何かしらの保証を求めるようになる。
社員を抱え込む意識が低下している会社側としては一時的な金銭的ベネフィットを用意するくらいしかやることがない。
報酬に見合った成果を求める。
負荷は上がる。
時間がなくなる。
会社に何かしらの対応を求める。
やってもいいけどその分報酬削るよ?と会社から言われる。
我慢して負荷に耐える。
結局時間はない。
離職しようと考える。
スキルが伸びていないため転職が難しい。
負荷に耐え続けるか報酬が落ちても転職するかの判断になり詰む。

という悪循環だ。

当然このような負のスパイラルなど我関せずという人もいるだろう。実際私もそうかもしれない。元々からキャリアを自分で切り開く発想しか持っていない強度の高い人間たちだ。
転職・リストラなんのその、会社倒産なんのその、自分さえしっかりしていれば常に活路はあると信じている強靭なるゴリラたちだ。

アメリカでの経験をふと思い出す。
「HRのサービスを入れることにしたからその会社からの説明を聞く」という話で召集を受けたことがあった。HRのサービスというのはいわゆる福利厚生の話だ。「確かに、某社に入った時も保養施設の説明とか割引チケットの使い方とか説明受けたなあ(興味なし)」とやる気なしで臨んだ私をよそに、みんなの熱が異常に高いことにすぐ気がついた。(何故ならTというほとんど滅多に会社に顔を出さないやつも、その場にはいたからな!)
何故そうなっているか。理由は医療費である。
アメリカの医療費は高い。そして日本と同等の国民皆保険制度はない。したがってそこをカバーする役割を担っているのが会社なのだ。正確には、会社が集団的メリットを活かして加入する保険制度だ。
5年間アメリカにいたときに、一時期に扱い上は無職になったことがある(念のため不法滞在ではありませんよ)
医療費の高さには本当に目玉が飛び出た。
給与の少なくとも1/4、多ければ1/3近く持っていかれる。さらに税金で1/3持っていかれたらもうあと1/3しか残っていない。加えて家賃も高い。もうこれで残りはゼロだ。貯金を削るしかない。
私はそういう時期はごく僅かな期間だったので耐えることができたが、アメリカで定常的に完全なフリーランスで生きていくのは相当な覚悟がいるとここからもわかる。
ちなみに大企業に属することができれば保険料は無職の時の1/10以下だ。ここまでくると逆に日本の社会保険料の負担額の感覚よりむしろ安い。これも会社の規模と福利厚生の方針次第だ。
このようにアメリカでは既に会社に多くのことを要求しなければ生活が立ち行かなくなってしまう人たちがゴロゴロしている。一部の富裕層を除くほとんどの人たちはそれに当てはまる。むしろ多くのアメリカ国民はそれが普通だと思っているのではないだろうか。
なお、属する企業とその企業の方針が重要だということがわかると同時に、そんな大掛かりな話(特に大企業の方針なんて個人にはどうにもできない)に自分たちの生殺与奪が握られかねないという状況も見えてくる。アメリカではみな常に微妙に尻を浮かせながらオフィスの席に着いている状態だというのが想像に固くないだろう。(いつでも離職できるように)

果たして個人主義の高まりは人間を幸せにするのだろうか?
そんなことを考えても実はあまり意味がない。
個人主義が高まる社会からはほぼほぼ逃れられないからだ。

したがって選択肢はシンプルな二つ。

個人主義が高まる社会で強靭に生きていくか、それとも全く別の小規模な社会を構築するか、だ。

グローバルキャピタリズムは合理性と利得の増進の機会を逃さない。個人の幸福など二の次だ。「お前が嫌なら代わりはいくらでも居る」というやつで、ある意味では功利主義の完成版とも言える。

もしそれが嫌であれば全体的な効用の増大にNOを突きつけるしかない。
小規模な集団を作って戦えば個人で戦うよりもよっぽどマシな戦いができるはずだ。
それが村なのか市なのか、それとも法人という組織形態で可能なのか。
そこが醸成されたイノベーションが今後最も必要とされる領域に思えて仕方がない。

九頭龍 'kuz' 雄一郎 エンジニア/経営者, 日本の大企業からシリコンバレーのスタートタップまで多種多様な千尋の谷に落ちた経験を持つ。 株式会社ClayTech Founder/CEO, 監査役DX株式会社 Co-founder/CTO, 株式会社スイッチサイエンス取締役, 株式会社2nd-Community取締役, 東北大学客員教授, 東京工業大学非常勤講師, 武蔵野美術大学非常勤講師, 他複数社の顧問など。

シェアする