不合理はアリ、不整合はナシ

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不合理、不整合、どちらも一般に嫌われるものだが、信頼がおけるかどうかという意味では大違いだ。

不合理のある人間の嫌われ方はこうだろう。
仮に上役なら、理不尽、パワハラ、無理な目標、目的がよくわからない計画、「アイツ偉そうなだけで結局何もわかってないな」
部下や下の立場なら、効率が悪い、上司の指示に沿わない関係ないことばかりやってる、扱いにくい

不整合のある人間の嫌われ方はこうだろう。
口先ばかりで行動が伴わない、「あいつ、時と場所によって言うことコロコロ変わるな」、先週上司が「もっと細かいドキュメントを作れ」と言うので作ってきたのに今度はろくに目を通さずに「結論を端的に言え」とか言う

という調子だ。

不合理、という言葉は合理の否定であり、合理は字の通りに「理」に合っているという意味だ。ここでいう理とは時と場合によって数理であったり物理であったりはたまた心理であったり、それらの複合であったりするかもしれない。実はとても不安定なものなのだ。

不整合、という言葉は整合の否定であるが、整合とは首尾一貫していることだ。その行為や選択が正しいか間違っているか、社会の役に立っているか立っていないかなどは議論の外である。つまりこちらは実はとてもシンプルなものなのだ。

不合理かどうかは見方次第である。
例えばfacebookが最初はハーバード大学生以外は参加できないサービスでスタートしたのは有名な話だが、「ユーザーを増やす」視点では明らかに不合理であるが、結果は、ハーバードの次はアイビーリーグ、その次は、、、と徐々に広げていってご存知のとおりに世界的なサービスとなった。
AirBnBは最初の貸主を探すためにネットやSNSを活用したのではなく、一軒一軒営業メンバーが訪問して家主と交渉した。
スケールするためには明らかに不合理な行動をすることによって、逆にスケーリングできた、なんて事例はそれこそ枚挙にいとまがない。

つまりこれらは「一見不合理」なだけで実は本人の中では理屈が通っている。それが他人にはよくわからなかったり認めることができなかったりするだけなのだ。
しかし大抵の場合でこのような状況は「不合理」とバッサリ切られる。無知なる評論家たちによって。つまり、解答が不明瞭な問題、未来の話、未知の課題に対するアプローチ方法について、他人が不合理と感じるかどうかなど気にする必要が無いのだ。
ハッキリ言って徒労である。

自分を信じて下さい。以上。

一方不整合はとても深刻だ。
人格も疑われるだろうし、誰からも信頼されない。
そして得てして不整合をきたしている人間は自らの不整合に気付いていない。
それは『整合』自体が本人の中で捏造されているからだ。
例えば「昨日と今日で言うことが違う」なんていう不整合も、本人の中では「常に自分の損得を最優先した発言をする」というように整合が取れているように感じているかもしれない。
他人のアイディアや成果をホイホイパクる人も、本人の中では「誰の成果なのかということは本質的な問題ではなく、社会に対して良いサービスを確実にローンチすることのみが重要である」というような整合が取れている可能性は否定できない。

これらは実は、

『整合』と『合理』の取り違いである。

不整合が起こっている自分を何かしらのそれっぽい『理』でねじ伏せて無視して進んでいる。
このような生き方は当たり前だが矛盾に満ちていて破綻に近い。
出世はしたけど部下に嫌われている人、社会的には成功したけど家族関係が最悪なひと、彼らは大抵どこかで撒いた不整合のツケを支払わされているだけのように思う。
不整合は裏切りであり、保身である。それは何をも生み出さない。

不合理はアリ、不合理はナシ。

なお世の中でイノベーションと呼ばれるものもほとんどが不合理の中にある。

九頭龍 'kuz' 雄一郎 エンジニア/経営者, 日本の大企業からシリコンバレーのスタートタップまで多種多様な千尋の谷に落ちた経験を持つ。 株式会社ClayTech Founder/CEO, 監査役DX株式会社 Co-founder/CTO, 株式会社スイッチサイエンス取締役, 株式会社2nd-Community取締役, 東北大学客員教授, 東京工業大学非常勤講師, 武蔵野美術大学非常勤講師, 他複数社の顧問など。

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